繭と球体からテクノロジーを理解する

「繭/COCOON:技術から思考するエコロジー」展(IAMAS ARTIST FILE #10)は、技術についての私たちの理解に揺さぶりをかけてくる、そのような展覧会である。
さて、私たちは技術/テクノロジーを一体どのように理解しているのだろうか。普段、私たちは、テクノロジーを人間が作り出した「便利な道具」であるとか、私たちの「身体の延長」であると考えているだろう。この考え方は、近代以降の科学技術の発展とともに社会に浸透してきたものだが、これに対して、イタリアの哲学者エマヌエーレ?コッチャは、まさにこの私たちの技術への理解こそが現代の問題の根底にあると指摘する。
コッチャの思想は、これまでのわたしたちの技術への理解を根本から転換するものである。彼は『メタモルフォーゼの哲学』において次のように述べている。「技術は、生と対立したり生を外部へと延長したりするような力ではない。技術とは、生の最も内的な表現、その本来的なダイナミズムでしかない」。この視点は、技術というものを人間の外部にある「道具」としてではなく、生命に内在する「変容の力」として捉え直すものである。つまり、技術というものは人間だけに特権的に授けられた固有のものではなく、むしろ、それはあらゆる生命が世界と取り結ぶ関係の表現として存在しているのである。この展覧会につけられたタイトルである「繭/COCOON」、それはコッチャの『メタモルフォーゼの哲学』における中心的な概念であり、私たちのテクノロジーに対する固定観念を変えるための重要なキーワードとなっている。
それにしても、繭とは一体何だろうか。私たちは蚕(かいこ)蛾の「繭」というものを知っていたり見たことがあっても、その奥深さについて考えたことはあるだろうか。蛾や蝶の幼虫は、成長の過程で驚くべき変容を遂げることは知っているだろう。彼らはある時点で、自分の体から糸を紡ぎ出し、自分自身を包み込む「繭」をつくりはじめる。この行動は本能によるものだが、その結果はたんなる避難所や保護のための殻ではなく、それ以上のものなのである。
実際に、繭の中で起きるのは、ただの姿の変化ではない。それは「変態」と呼ばれる生物学上の驚くべきプロセスであり、幼虫の体は一度ほぼ液状になり、細胞レベルから再構成される。つまり、その生き物の「本質的なあり方」そのものが、完全に作り変えられるのである。かつて地面を這っていた幼虫は、繭という自らが創り出した空間の中で、美しい羽を得て、空を自由に飛ぶ成虫へと生まれ変わるのだ。
このプロセスにおいて、繭の役割は非常に興味深い。繭は単なる物理的な容れ物や保護シェルではない。それは変化そのものを可能にする環境、つまり変容の「場」となるのだ。幼虫が自らの体から素材を作り出し、自分の周りに巻きつけるという行為は、自らの変容のための空間を能動的に創造していることを示している。言い換えれば、生物は単に環境に適応するだけでなく、自らの変化に必要な環境を自ら作り出す能力を持つのだ。この視点から見ると、繭は生命の持つ創造性と自己変革の力を象徴であると言える。 コッチャの議論では、生命体の解剖学的な構造だけでなく、その行動様式や世界との関わり方そのものが変容する。これこそが「メタモルフォーゼ(変容)」の本質であるという。
技術を「繭」として理解すること。それは、技術を通じて私たち自身が変容し、同時に世界との関係を作り変えていく可能性を示している。この展覧会で紹介される5組のアーティストは、それぞれの方法でこの可能性を探求している。
さて、前置きはこれほどにして、この展覧会に出品された作品をめぐって、コッチャの思想とドイツの哲学者スローターダイクを補助線に、行きつ戻りつ考えていきたい。

《金魚解放運動》 石橋友也 (2012-17年(2024年改作))
まず、メタモルフォーゼ、変容について考えるために、石橋友也の作品を見ていこう。石橋友也の《金魚解放運動》は、1700年かけて人間が品種改良してきた金魚を、元の姿であるフナに戻すプロジェクトである。私たちが観賞用に親しんできた金魚は、もともと野生のフナが人間の手によって何世代にもわたって選択的に交配され、少しずつ変化させられてきたものである。石橋はこの文字通り「作られた金魚」を逆の方向に進め、祖先であるフナの姿へと回帰させようとする。
一見すると、これは歴史の逆方向にたどる奇妙な試みに見えるかもしれない。しかし、この作品が本当に問いかけているのは、生命の持つ変容の可能性である。金魚からフナへの「回帰」もまた、ひとつの変容なのだ。それは、人間の審美的な欲望によって固定された「金魚」という存在が、再び生命の大きな流れの中に解き放たれていく過程と捉えることができる。
この作品を理解するために一つの補助線を引いてみよう。ドイツの哲学者ペーター?スローターダイクは、人間は長い間、生命を「飼いならし」「育種」することで支配してきたと『人間園についての規則』で論じたことがある。しかしスローターダイクは同時に、人間が唯一「自分自身を育種する」種でもあることも指摘した。つまり人間は、自らの生物学的?文化的特性を意図的に選択?形成してきた特殊な存在なのだ。
石橋の試みは、こうした人間中心主義的な支配のベクトルを転倒させる。それは単なる技術の放棄のようにも見えるかもしれないが、実はもっと重要なことを暗に投げかけている。それは、育種の技術が私たち人間自身にも向けられているという事実である。金魚を「解放」するという行為は、私たち人間もまた、自らが作り上げてきた技術的?文化的な枠組みの中に閉じ込められているのではないかという問いさえをも思い起こさせてくれる。つまり、人間自身も自分たちが作り出した技術によって方向づけられているのであり、その技術的枠組みから自由になることが可能なのか、という根源的な問いを投げかけているのだ。

《L’Arbre-Monde》 florian gadenne + miki okubo (2024年)
一本の木、と言うとき、私たちはそれを「ひとつの個体」として捉えがちだが、果たしてそれは本当にそうなのだろうか。florian gadenne + miki okuboによる《L’Arbre-Monde》は、一本の樹木が持つ驚くべき世界を描き出す作品である。作品は4つの部分から構成され、それぞれが異なる視点からエコロジーに対する問いを投げかけている。一本のオーク樹木が抱える複雑な生態系を繊細な技法で描き込んだ画面は、共生、対立、寄生、捕食という生物種の間の複雑な関係性とエネルギーのサイクルを思い起こさせ、生命とは閉じた回路ではなく無数に繋がる「ネットワーク」であることを明らかにしている。
一本の樹木の中に存在する無数の生命―それは「ホロビオント」(全生命体)という概念で理解される。ギリシャ語のholos(すべて)とbios(生命)を語源とするこの言葉は、ある宿主を中心とした多種の生命の集合体を指す。ここでは、個々の生命は決して孤立した存在ではない。動物、地衣類、苔、菌類、バクテリア―これらはすべて互いに複雑な関係を結びながら、一つの生態系を形成している。常に他者との関係の中で変容し、新しい存在として生成していく。この視点は、私たちが通常「個体」と呼ぶ固定的なアイデンティティという考え方そのものを根本から揺るがすものである。

《Gland Monde》(《L’Arbre-Monde》より) florian gadenne + miki okubo (2024年)
ドングリという小さな木の実を通して、生命と技術、人間と自然の関係を問い直す作品も興味深い。都市や森で採集した様々な種類のドングリ、それらを型取り、磁器として焼成したものが展示されている。そして、展示台に大量に置かれたドングリのレプリカの中から、鑑賞者は好きなものを選び、油粘土を使って自らの手でそれを複製するよう促される。さらに鑑賞者が作ったレプリカと元のドングリを交換することで、展示そのものに参加するというものだ。少し、ほっこりする作品の形態だ。こどもの頃、ドングリをポケットに忍ばせて、家に持ち帰った経験がある人も多いだろう。なぜドングリはこのように多くの人々にとって魅惑的にうつるのだろうか。
このドングリ、広くはブナ科の樹木の果実である。一見すると単純な形をした小さな果実だが、その背後には複雑な生命の技術が働いている。ドングリは堅い殻で胚を守り、苦味物質を含むことで動物に食べられるのを防いでいる。同時に、捕食者でもあるリスなどの特定の動物によって運ばれ、地中に埋められることで分散する。木々とリスの関係は、相互依存的な「技術」の交換でもある。木はリスに栄養価の高い食料を提供し、リスは木の種子の散種を助けるのである。さて、この作品にとってのリスとは一体誰か? 哲学者コッチャの視点に立てば、これも「生命の技術」の一つの表れであり、私たちが「技術」と呼ぶものが、人間固有のものではなく、生命に内在する普遍的な能力として捉え直されるとき、ドングリの小さな世界にも、驚くべき創造性と知恵が流れているのを見出すことができるのだ。

《猫文尽くし》 西脇直毅 (2012年)
西脇直毅の作品では、微小なネコが画面上で無限に増殖し、数えきれないほど集まってひとつの流れが形成される様子が描かれている。緻密に描かれたネコたちは、時に渦を巻き、時に青海波のような伝統的文様と有機的に接続しながら、画面を埋め尽くしていく。西脇の作品における文様の増殖は、生命の持つ自己組織化の力を表現していると言える。
それは単なる装飾的な繰り返しではない。むしろ原初的な表現としての「文様」の生成過程そのものを思わせる。文様とは何か。それは単なる装飾ではなく、世界を秩序づけるための人間の根源的な営みである。西脇の制作のスタイルは、一点一点をボールペンで緻密に描く膨大な時間と労力を要する。人間による手作業という「技術」の極限的な表現でもある。無数の線が重なり合い、蓄積されていくプロセス、それは生命が持つ自己組織化の力、そのものである。
ひとりの画家が何かを描くとき、その行為は単なる線や色の組み合わせではない。画家は絵の具や筆と一体となり、それらと深く関わりながら作品がつくられる。画家の手の動きは、筆の感触と対話するように進められ、その過程で作品が姿を現していく。そこでは道具と人間の境界が曖昧になる。それは幼虫が作り出す繭を思わせる。繭は保護空間であると同時に、その中において変容が起こる特別な場所なのだ。一方、スローターダイクは『球体圏(スファーレン)』の中で現代の地球の状況について、誰一人として「くつろぐ」ことのできない市場原理を体現する存在だと喝破した。「くつろぐ」ことさえできない球体の表面で、西脇は繭的な空間に身を置き、微小なネコを無数に増殖させることで、球体に揺らぎを与えている。

《LOST (Diversion)》 クワクボリョウタ (2025年)
「くつろぐ」ことのできる場所と言えるかもしれないクワクボリョウタによる「LOST」シリーズは、真っ暗な空間の中で、ひとつの小さな点光源から生み出される光と影のインスタレーションである。観客が洞窟のような暗闇の展示空間に足を踏み入れると、最初に目に飛び込んでくるのは、暗闇の中を移動する小さな光点だけである。この光点は、実は鉄道模型に取り付けられた小さなLED電球であり、レールの上をゆっくりと動いている。よく目を凝らすと、床には日用品や小さな模型が配置されていることがわかる。この光点がそれらの物体の上を通過するときに、その影が壁一面に投影され、突然、巨大な街のシルエットが浮かび上がる。建物、橋、山々、道路など、日常的なオブジェから作られた小さなジオラマが、一瞬にして壮大な風景へと変貌する。光源が移動するにつれて、影もまた動き、生き物のように呼吸するかのような有機的な動きを見せる。
国内外の展覧会で多く紹介されたこの作品シリーズは、唯一の形にとどまらず多数の異体をもち、そして、時間の経過とともにたち現れ、上演の都度、作品が享受されていく。これは、作品を固定された「もの」としてではなく、常に生成の過程にある「できごと」として立ち現れることを意味している。また、これらが暗闇の中で展開されることにも重要な意味があるように思える。
この暗闇の中で小さな点光源が生み出す影のインスタレーション作品は、古代ギリシアの哲学者プラトンが語った「洞窟の比喩」を現代的に反転させるような含みを持っている。人間は洞窟の中に囚われた存在のようなものだとプラトンは説く。囚人たちが壁に向かって座らされ、背後の火の光によって映し出される物体の影だけを見て、これを実在だと信じている。プラトンにとって、本当の知とはこの洞窟を抜け出すことにほかならない。しかし、はたしてそうだろうか。この作品の暗闇を一種の「繭」として解釈するとすれば、鑑賞者は日常的な経験から切り離され、点光源から生まれる影が新たな原風景へと誘う空間となる。現代人が日常的にみるPCモニタやテレビのスクリーン、スマホの画面に繰り返し再生される動画は、現実世界の表層を伝えるものに過ぎない。一方で、この暗闇の体験では、床に置かれたモノの存在が私たちの時間とともに内側からダイナミックに洞窟の壁一面に再生/上演されている。プラトンの考えとは正反対に、私たちはこの「影」のうちにこそ生きられた時間をみるのだ。

《(digital)Soba Choko》 ジャン=ルイ?ボワシエ (2024年)
ジャン=ルイ?ボワシエの《(digital) Soba Choko》は、日本の伝統的な器である蕎麦猪口に着目したプロジェクトである。「digital」という言葉には二重の意味が込められている。ひとつは「数」という意味、もうひとつは「指(=手仕事)」という意味である。この語源的な意味の両義性を通して、伝統的な工芸とデジタル=数理的なものの関係性を問うものである。というのも、日本の食文化の中で長く使われてきた器である蕎麦猪口のかたち、截頭錐体(せっとうすいたい)という形状は、高さ:底辺:幅=6:6:8という比率なのである。手仕事による陶器でありながら、その形状には安定した比率、つまり「数的な秩序」が内在しているのだ。
ボワシエは、近代以降分断されてきた二つの「技術」―数理?デジタル的な技術と、手仕事?工芸的な技芸―が、その根源において共通するものを見出そうとしている。現代の技術観では、技術は常に「進歩」するものであり、高度に複雑になっていくものとして理解されがちである。しかし、蕎麦猪口のような伝統的な形態のうちに数的秩序を見て、技術を単線的な「進歩」として捉える見方に疑問を投げかけている。
この展覧会全体を通して、技術についてのいくつもの根源的な問いが投げかけられている。技術は本当に人間の外部にある「道具」なのだろうか。コッチャが指摘するように、技術を通じた「世界の操作」は、必ずしも世界の支配や制御を意味しない。それはむしろ、私たち自身の「本性を手放すこと」であり、自らを内部から変容させていく過程なのである。それは時に、人間としての既存のアイデンティティからの脱却を意味するかもしれない。しかし、そのような変容こそが、世界との新しい関係を可能にするのではないだろうか。
現代社会が直面しているさまざまな危機は、技術を「人間の道具」として捉える見方の限界を露呈させている。技術を生命に内在する変容の力として理解し直すとき、私たちは世界との新しい関係を築くことができるかもしれない。この展覧会は、そのような可能性を開く試みとして読み解くことができるだろう。